毎年7月、疫病や風水害を払うとともに安泰を祈念し、絢爛豪華な計9基の山鉾が各地区で巡行する日田夏の風物詩「日田衹園祭」。 300年以上もの間受け継がれ、人々に地域への想いを奮起させてきたこのお祭りは、平成8年に国の重要無形民俗文化財の指定を 受けています。
 そして平成28年12月、「日田衹園の曳山行事」を含めた全国18府県33件の祭りで構成する 「山・鉾・屋台行事」が”日本の地域文化の多様性を示している“と評価され、国連教育科学文化機構(ユネスコ)が定める 「無形文化遺産」に登録されました。
 「無形文化遺産」とは、これが保護・継承されるべきものであり、世界的な文化遺産の代表として認めるものを指します。 山鉾の担ぎ手やお囃子、そして人形師など一人ひとりが主役となりこの地に根付き続けるこの行事。無形文化遺産の登録を受け、 日本文化を世界に伝えていく気運とともに、平成29年7月22日・23日に控える衹園当日に向け、準備が進められていきます。

◆「日田衹園祭」について
 四百余年前に、日隈城内にあった八坂神社が日隈城廃城のおりに現在の隈、寺町付近に移され (現八坂神社)、その後、厄除け神事が行われるようになりました。寛文年間(1660年~1672年)頃にはすでに、 杉の葉枝などを盛り、幕で飾った曳山があったらしく太鼓などで囃していたと長嶋家の古文書にあり、日田の経済が発展した 正徳4年(1714年)には現在のような山鉾がすでに巡行し御神幸の形態も完成していました。文化文政期には、 山鉾の高さも6丈(18m)に達し、時の代官が3丈の高さに規制した記録も残っています。明治32年、電灯線の設置により 高さ5~6mの山鉾を巡行していましたが、平成8年に国の重要無形民俗文化財の指定を受け近年では、山鉾の高さも嵩上げが 進み明治時代の10m級の山鉾も奉納されるようになりました。

日田衹園祭
開催日:平成29年7月22日(土)・23日(日)
会 場:隈・竹田地区/豆田地区

【見送り幕・水引幕】
山鉾の背面を飾る高さ3m幅1.5m程度の垂れ幕が見送り幕。山鉾の周囲を囲む幕が水引幕です。 山鉾1基につき見送り幕と水引幕が対で付けられます。
現在市内には10本以上の見送り幕が残されていて各山鉾町で大切に 保管されています。
見送り幕と水引幕は、ラシャ地に金糸を用い虎や龍などを刺繍した幕で、 古いものは天保年間の物もあり現在も巡行に使用されています!
日田衹園山鉾集団顔見世
開催日:平成29年7月20日(木)予定
時間:19:00~ 会場:JR日田駅前

【日田衹園囃子】
囃子は、文化年間(1804年~1818年)に日田郡代の目明であった小山徳太郎が長崎で明笛を習得し、それを衹園囃子として使用したのが始まりであるとされています。篠笛を主旋律に、太鼓、小太鼓、三味線で構成され、当時の俗曲や端唄などを元にした30数曲目が演奏されます。中でも「役物」と呼ばれる巡行の区切りに演奏される曲は重厚で聴く人を魅了します。

スケジュール
7月1日 ◇小屋入り
山鉾の建造開始を「小屋入り」という。この日から本格的な作業に取りかかる。

◇色あげ作業
解体された山鉾の館やはね出し等の色を塗り直し、金紙を切った欄干の金具などを張り替える。

◇パイパイ染め
山鉾の高欄の両側に挿すパイパイは波のしぶきを表していると言われており、このパイパイを天気の良い日に塗料で染める。
2週間前 ◇車揚げ
赤松の丸太を輪切りにした径二尺以上のあかたの部分で作られた山鉾の車輪は、普段池の水の中に沈められているが、山鉾の組立前に池から引き揚げられる。

◇山鉾組立(飾り付け)
祭り2週間前には色揚げされた館や、引き上げられた車を組み立て、パイパイや手作りされた松ノ木、牡丹、あやめ、梅などを飾り付ける。花は町内のご婦人たちが作っている所が多い。
1週間前 ◇神輿洗い神
禊(みそぎ)行事として行われる。衹園1週間前の土曜日深夜から行われ、三隈川で白木の御輿を洗い清める。

◇人形乗せ
1週間前の日曜日前後から各町内に振り分けられた華題の人形を、人形師の指示の元に山鉾に乗せる。




  ◇山番
人形が乗せられた晩から、山の前で町内の若者たちが山鉾にいたずらをされないように夜警を始める。
2日前 ◇流れ曳き
山鉾は3日間続けて曳くものではないとして、祭りの2日前に行う。山鉾のバランスや車の調子を見るための試運転。
◇集団顔見世
流れ曳きの日、JR日田駅前に市内の山鉾全てが集合し山鉾を披露する。

◇衹園祭典
衹園祭には、御輿の神幸や山鉾の巡業が行われる。当日、山鉾は自分の町内を一巡(町内押し)して衹園社に奉納し、神輿に従って所定のコースを巡行する。
「晩山」:山鉾は、夜になると提灯を点けて巡行し、氏子の気勢も最高となる。
翌日 ◇山鉾崩し
祭りの翌日、以前は翌年の当番山(山元)に渡され解体されて倉庫に納められたが、日田衹園山鉾会館に展示する隈・竹田の 山鉾4本及び平成山は車を替えて新しいパイパイを挿し、繕われ展示。

◇疫神払い
旧6月16日に当番山でない町内が行う衹園神事で町の両端二ヶ所に縁台を出し、その四隅に青竹を立て、注連縄を張り、祭壇を作ってお祓いをしていた。しかし現在では行われていない。

◇藪入り
衹園祭に参加したみんなで、衹園行事が無事済んだことで町内毎に慰労をする。



日田衹園山鉾振興会 会長 後藤稔夫

◎日田衹園祭の起こりと山鉾の変革
 平安時代、行疫神を慰め疫病を防ごうとしたのが衹園信仰の原形で、スサノオノミコト(牛頭(ごず)天王)を祀る衹園社がやがて全国に広まり、日田では上城内の堤衹園社、池部衹園社、蕪の衹園社、日隈山の衹園社(現在の隈八坂神社)、豆田八坂神社の5箇所に勧請され祀られたそうです。
 約350年前は杉の枝を竹で挟み御幣を立てて4、5人で担いでおり、正徳4年(1714年)には山車(だし)に棒鼻を付け、現在の箱型の山鉾になっていったとされています。それから各町内が競い合うように館や張り出しを作って飾り付け、担ぎやすく安定感を保つために米俵に石等(今は籾がら)を入れて取り付けるなど試行錯誤を繰り返し、段々と山鉾は高くなり、明治の終わり頃は17mもの高さになっていたそうです。
 電線が張られだして段々低くなっていきましたが、現在は8つの町ごとに造りが異なる8~10mの山鉾になり、隈八坂神社・豆田八坂神社・竹田若宮神社で祭礼を行っています。

◎祭礼の準備を支える人々
 毎年7月1日の「小屋入り」から準備が始まり、各町は山鉾の組み立てや飾りつけを致します。
 その際、山鉾に欠かせないのが、祭りの迫力を演出する歌舞伎人形です。昔から人形は各町内で作っていましたが、戦後からは、全ての人形を専門の人形師ひとりで作っており、人形師は日田衹園を支える重要な担い手となっています。
 重厚な音色で祭りを魅了する囃子方も欠かせません。年間を通して練習しており、現在では約40曲が口伝で受け継がれ演奏されています。現在の衹園囃子は幕末、塩谷代官に従って江戸から移住した小山徳太郎が長崎で明清楽の横笛を習得し、その音色に三味線と太鼓を合わせて俗曲や端唄を元として作ったそうです。
横笛は小指が入るくらいの太さの篠竹に穴を開けて竹紙を貼るもので、内にこもったような音を出すんですが、聴く者を皆引き付けるような独特の雰囲気があります。

◎300年以上受け継がれる
 日田衹園への思い。
 長い歴史の中で豆田地区と隈・竹田地区の山鉾が一緒になることはありませんでしたが、平成元年から山鉾が一堂に会する「日田衹園山鉾集団顔見世」を始めました。絢爛豪華な山鉾が勢揃いする貴重な光景は毎年多くの見物客で賑わいます。
 それに日田衹園祭当日の「晩山」も見どころで、提灯をつけた山鉾が豆田地区は両日、隈・竹田地区は日曜日に巡行します。豆田の町並みの中を曳かれる幻想的な山鉾も素晴らしいですし、隈の札の辻は「喧嘩山」と呼ばれ、狭いところを激しく勢いよく動き、あわや一触即発な程盛り上がります。荒ぶる気持ちを翌日に持ち越さないために「衹園の争いは終了したら忘れること」と決め事を作っていて、取締制度の中で判断力のある役員をきちんと決めております。若い人も縦割りの規律をしっかり守っているので、こうして祭り事が繋がっていくんです。
 今まで大火事や水害、戦争等での中断を乗り越え300年以上絶えず続いてきたのは、やはり担ぎ手、人形師、囃子方達が衹園に対する思いを持っているからでしょう。日田衹園祭はそういったみんなの心意気も含めて、朝から夜まで見て頂きたいですね。



ひたぎおんやまぼこかいかん
日田衹園山鉾会館

入館料 大人 310円・小中高生210円
団体(15名様以上) 260円
Tel.0973-24-6453
【所】日田市隈2-7-10
【営】9:00~17:00
【休】水曜日(祝日の場合は翌日)
   12月29日~1月3日